2021/02/13 20:27
当時、青梅のような田舎では飲食店がたくさんあった都会とは違い、酒を呑むのは家が主流。ご近所、友人が集まってきて呑むのが当たり前だった祖父の時代から、ぽつぽつと飲食店ができはじめ、外で呑む習慣ができてきた。
その時代をよんでの父の決断だったと今、私は思っています。
私自身は高校時代から横乗りスポーツにのめり込み(サーフィンやスケボー)、いくつかの大会に出場したこともあって、サーフィンに絡む仕事を夢見て専門学校に進むことを考えていました。
と、同時に青梅、そして木野下という地域への愛情。
自分を取り巻く近所のおじさんやおばさん、先輩や後輩たちに囲まれたこの地域を盛り立てていきたいという想いもあったのです。
時はバブルもはじけ、長く続く不況の入り口にあって、豊かに成長してきた青梅の街がその曲がり角に立っている。そんな予感もあったのかもしれません。
どちらも夢のある2つの道。酒屋の長男でもあった自分が、サーフィンにはまり海の仕事をしたいという夢を諦め、街の燃料店に就職したのはその予感に従って、自分のできることを探そうとしていたのかもしれません。
就職して2年が過ぎたころに祖父が亡くなりました。私が20歳になった時のことでした。
同時に父からは一緒に店をやらないか?いややろう!と誘われ、2年間務めた会社を辞め、3代目となる前提で店に戻ったのです。
その頃、父は大手の誰でも知っているお酒を扱うだけではなく、自分なりにこだわりをもった地酒の販売に力を入れ始めていて、そのやり方に興味があったということもありました。
ですが、急転直下、私が22歳の時に父は若くして突然、亡くなりました。
<org01>■三代目を継ぐ</org01>
酒屋っていうのは朝から晩まで重い酒を担いでは配達に回るきつい仕事です。
そして、薄利な仕事。
そんなことを骨の髄まで知っていた母は「酒屋を継ぐ必要はないよ」「好きに生きなさい」と言ってくれました。
しかし、自分は父がとっかかりを作った全国にある小さな酒蔵を自分の足で回り、自分の舌で味を確かめ、発掘し、自信をもって販売するという仕事に可能性を感じていました。そして、その楽しさと奥深さを感じる入り口に立っていたのだと思います。
22歳の若造の立場でありながら、武藤治作酒店三代目としての人生をここから歩み始めたのでした。
そのきっかけを作ってくれたのは、後述しますが、福岡県に居を構える杜の蔵という酒造でした。